暗闇

 会社に泊まることになった。しかし僕はすっかりそれに慣れてしまっていた。テーブルの上に寝ることもあるし、床に寝ることもある。椅子を並べて即席ベッドにすることもあるし、面倒じゃない時には先輩にもらった自動で膨らむエアーマットのようなものを敷くこともある。大抵寝られない。輾転反側して生きる意味について考え、脳裏に塹壕が思い浮かぶ。周期的にやってくる爆撃と銃撃、体は疲れているのに神経が尖っているから目ばかり冴えて心は恐怖でいっぱいだ。腕の中に抱えたライフルだけが心の友で土の匂いも火薬の匂いも血の匂いももう何も気にならず心臓の音が頭の中でやけにうるさい。眠れなくても構わなくて、仕事ならもう何回も何回もやって来たのだから平気だった。ここは戦場ではないし僕は兵士でもないし野宿でもないし第一に危険が何もない。失敗しても全然死なないし怒られることすらないかもしれない。テーブルの上だって寒いけれどそれなりに快適だし、と思えるようになった時、寝ようとする努力も捨てて真っ暗な会議室で読書することもある。真っ暗な会議室で読む本は小説やエッセイより、誰かの日記やブログがいい。できればなるべくフラットで、できればなるべく意味がなく、できればなるべく流暢で、軽くて長くて意味不明で、ちょっと笑える本がいい。ミュージシャンの日記とかはかなりいい。大概ずっとツアーをしていて何を食らったとか、誰に会ったとか、ライブがどうだったとか、そんなことを何日にも渡ってずっと書いていて、ファンでもない限り面白くもなんともない。会社員の日常とほとんど大差ない。しかしそういう文章が読みたくなる瞬間もきちんとあって、そういう時にはラーメンよりも春雨だし、ステーキよりもハリボーのグミが良い。伝説の剣よりひのきの棒がいい。暗闇の力なのだとしたら僕はゆりかごの中で父の愚痴でも聞かされていたのか。もしくはただ単に思考力が奪われている状態が暗闇に似ているだけかもしれない。
 先輩と食べに行ったラーメン屋はクリスマスの街から少し外れた路地裏にあった。狭い店内には着飾った人々が大挙していたけれど席に座ることができる。お冷を飲み干して鉄板が貼ってある壁を中指の裏の骨でこっそり叩いてみたら、きちんと金属特有の高い音が鳴って嬉しい。ロボットの腕のボタンを押すと手首から先がバネの力でビュッと飛んでいくの、って嬉しい。ファービーがなんか変なこと言うのもやっぱり嬉しいし、テレビをつけるとテレビが映るのも嬉しい。馬を撫でた時、目を細めたら嬉しい。お腹にボタンがついているぬいぐるみがあって、押すとざらざらした電子音で喋る。喋るたびになんか嬉しい。このことを他人に伝えると曖昧な顔をされるけど、ボタンを押して何も起きないと悲しくないだろうか、と聞くとわかってもらえる。嬉しくないんだろうか。このことを3年前くらいから考えていて、ひとつの重大な仮説を思いつくに至ったので、遺書に書いておく。
 一杯いかがかな、ということになる。アメリカンなダイナーみたいな店に入って怪しい照明の下で有象無象になっている烏合の中の一人になって、半眼のままメニューを開き一瞬では覚えられない名前の酒をオーダーする。先輩がプロパーのレジュメがシエスタもので天照破顔みたいなことをつらつらと申し述べているのを聞いているのは良い経験であった。メニューにはおいしそうな変わったものがたくさん載っていた。お値段もなかなかであった。こんなにお高い物を食べたら成人病になって即死するんじゃないかというコズミック・ホラー的な恐怖が這い寄って来たけれど、「ゴルフの会員権って高いのだと3000万円くらいするんだよ」と聞いてお腹の中に超新星が発生してしまう。世の中にはまだまだ知らないことがたくさんあるし、それと同じくらい知らなくていいことがある。知らなくてもいいけど知ってると面白いものの中にはチャック・ノリス・ファクトや重力異常地帯やミッフィーちゃんの体重などのことがある。おしゃれな酒が運ばれてきたので普通に飲みながら話しているうちに終電が去り、夜は深まっていく。僕は会社に帰り、先輩に寝ますと伝えて会議室にエアマットを敷く。カフェテリアで謎の乳酸菌飲料を買って飲んで、トイレに行って歯を磨いて寝ることにする。真っ暗な会議室に戻ってマットに体を横たえながら暗闇に似た本を読む。