みずたまりクロラ

 その日の天気は曇りだった。
 だから砂浜に寄せては返す波もどこか荒々しい。
 海の色は空を映して同じようなダークグレイだったけれど、僕と友人達にはそんなことは全く関係が無かった。せっかく遊びに来たのだから泳ぐ以外の選択肢がない。
「水が冷たい」と力いっぱい分かりきったことを叫びながらお互いに掛け合い、下半身をびさびさにしてくる波の中にゆっくりしゃがみ込んでやっぱりまた言葉未満の言葉を叫ぶ。
 そういう単純な感情を叫ぶことは、いつだって楽しいのだと思う。

 一通り浅瀬で遊び終えたあと、僕たちは遠泳をしようと決めた。
 少年たちの胸にはいつだって冒険心が溢れているからだ。
 好奇心も、そしてとびっきりの慢心も。
 逆三角形の肉体を有する水泳部のNが真っ先に泳ぎはじめ、それをやんちゃな野球部のSが追った。殿を務めるのはゲームが好きな帰宅部の僕である。
 Sの恋人のYさんは浜辺で待っていた。
 水中メガネが無かったから、ずいぶん変なフォームで泳いでいたと思う。
 泳いでみると思ったよりもずっと波が高く、眼の前の水の塊が緩やかな坂になって盛り上がってくる光景は、異様だったし恐ろしい。
 けれど僕はもっと荒れている海でも泳いだことがあったし、こんな波は全然大したことがないと思い込もうとしていた。
 水泳部のNが泳ぎながら陽気な声で「波が高い! 帰ろう!」などと言った気がする。
 あるいはそれは、僕の気のせいかもしれない。いつの間にか泳ぐことで精一杯になっていた。次から次にやってくる波をどうやって乗りきるか、それだけしか考えられなくなっていた。波の音がする。ぞっとする波の音が延々と続いている。気がつくと周りにいた友人達はどこにもいなくなっていた。慌てて背後を振り返ると、二人は浜辺に引き返していて豆粒くらいの大きさになっていた。もちろんすぐに引き返すべきだったのに、何故か僕は沖に向かって泳ぎ始める。何がそうさせたのか、もう思い出せない。船が浜に近づきすぎないように設置されたブイが遠くに等間隔に並んでいて、そこまでは泳ごうと思った。海底はとっくの昔に深い青に吸い込まれて見えない。水温がとても低くなっている。波の高さは沖に近づくにつれて高くなっている気がした。ブイが50mほど先に見えてきた頃には足も手も鉛が詰まっているかのように重くなっている。泳いでも前に進まなくなる。潮目がどこかで変わったに違いない。浜に向かって潮が流れ込んでいるのだ。それに気づいたところでもう遅かった。戻る体力はない。ブイまでたどり着けなければ僕は確実に溺れる。何度も水を飲んで口の中が辛くて喉が痛い。でもむせている暇もない。鼻も痛い。目も痛い。その頃になって恐怖が実体を伴って腹の中で冷たい塊になり始めた。首筋がぞわぞわして髪の毛が逆立つのが分かる。死ぬんだと思った。僕は死ぬ。友人達と遠泳をして周りの友達が引き返したのに何故かひとりで沖に向かって泳いだすえ行方不明になったゲームが好きな帰宅部の少年Sくん、それが僕だ。圧倒的な恐怖に身も心も支配されている。水に浮かぶためには体の力を抜く必要があるのに、恐怖が体を強張らせる。自分では何ひとつコントロールすることができない。疲れきって唸りながら泳いでいた。海中に突如として綱が現れた。太い綱だ。波の間にも見えるくらい、海面の近くを一直線に海底に向かって伸びる綱。沖に浮かぶブイを海底につなぎとめて置くための頑丈なロープだと分かった時、手を伸ばしてしがみついた。神様はいる。まだ僕に生きろと言っている。海中に固定されたものをつかむということは、波に乗れないということでもあって、今までよりも強い衝撃で波がぶつかってくる。それでもわらにすがる思いで綱をつかんで引き寄せる。夢中で繰り返しているうちにブイにたどり着いている。真っ赤な鉄製のブイの表面には牡蠣やフジツボがグロテスクなまでにくっついていた。ブイの上にはわずかに平面があるけれど、海面から高い位置にあり、手を伸ばしても届かない。どこかにはしごのような物があるかもしれないと思い周囲をぐるりと回ったけれど、はしごは無かった。休めなかった。絶望した。心底後悔していた。少なくともロープにつかまっていればすぐに沈んでしまうことはなかったけれど、永遠にとどまっていることも出来ない。浜から友人たちが見ているのがなんとなくわかり手を振った。振り返してくれた。いや、そういうことじゃないんだよと僕は思う。助けてほしい。切実に助けを求めたい。しかし叫んでも声は絶対に届かない位置だったから、泳いで帰るしかなかった。自分に有利な要素があるとすれば、おそらく潮が浜に向かって流れているため、帰りは比較的楽に泳げるはずだという点だけだ。しかしそれも推測に過ぎないし、浜は見るからに遠かった。迷った時間だけ体は疲れていく。もうどうにでもなれと思ってのぼせた頭で浜辺に向かって泳ぎ始める。今度は背中側から波がやってくる。顔にいきなり水がかからないだけ良かった。泣きそうになりながら泳いだ。泣いたら息が出来なくなって死ぬと思った。「しじみちゃん!」と声がした。波の間に水泳部のNが顔を出している。助けに来てくれた。「大丈夫!?」「大丈夫じゃない。助けて」僕はそこでもう沈んでもよいと思った。人間にはきちんと良いところがあるんだ。心から信じてもいいところが、ちゃんとある。それは良心というやつかもしれないし、あるいは友情というやつかもしれない。名前などは、この際どうでもいい。死にそうな時に伸ばしてくれた手に名前なんてつけられない。「ありがとう」と言って手をつかんだ。そのまま浜辺までNが引っ張ってくれた。Nの泳ぎは力強かった。足がつく所まできて、手を離した。僕は浜辺によろよろ歩いていき、死ぬかと思ったよと冗談を言いたかったけれど言えなかった。砂の上に立てたことがこの上なく嬉しく、馬鹿な自分が悲しく、そして生きているということが叫びたいほどありがたかったので、うずくまって泣いた。友人の前で泣くのは恥ずかしかったけれど、見栄や恥ずかしさなんてどうでも良かった。Sの恋人のYさんが「おおよしよし、怖かったね」と言って背中から抱きしめてくれた。その時ほど自分が情けなかったことはない。そしてあらゆるものに感謝したことはないと思う。
 以来、遠泳はしていない。

 35mほど泳いで水を飲んでしまう。
「うっ」と呻いてプールの真ん中で立ち上がる。
 下手な泳ぎを誰かに見られているのではないかと心配になって周囲を見回したけれど監視員のお兄さんすら見ていなかった。
 再び泳ぎ始める。今度はゆっくり、浮力を感じている。
 好きだけど、泳ぐのはいつまで経っても下手だなあと思う。
 僕は水中を這いずり回る者。
 名前だって、しじみファングだ。

 

映画と自意識

 月曜日が休日の時は映画を見に行くことにしている。

 目覚めたら風呂に入って服を着替えて外に出る。陽射しが春。
 もう春が来るんだと思う。去年の冬に買ったばかりの真っ黒なステンカラーコートも、ちょっと暑くなってきた。家から映画館までは徒歩で40分くらいかかる。歩いている間に脱ぎたくなってしまう。首に巻いたマフラーも蛇足である。春が来るんだ。桜がまた咲くであろう。上野公園はまたきっと綺麗で、賑やかに、騒がしくなるだろう。眠っていた命が目覚め始めるであろう。預言者を黙らせよう。映画館に行くときは、最近はかばんを持たないことにしているから、全くの手ぶらである。手ぶらだとなんだか寂しい気持ちになる。しかし持って出たいものなど今の僕には無いのだからしょうがない。以前はたくさんのモノを持って歩いていた。携帯財布家の鍵は必需品として、折り畳み傘やポメラ、文庫本、お守り、ニットキャップ、ポケットティッシュ、眼鏡、カメラ、耳栓、イヤホン、スケキヨのマスクなどを持ち歩いていた。そういうものは持っているだけでなんとなく嬉しいし、気分がよくなる。けれど使わないことがほとんどだった。スケキヨのマスクに至っては、家の洗面台の鏡でフィッティングを行って以来、一度もかぶっていない。何故買ったのか自分でもよく思い出せないけれど、秘密警察に追われる機会などがあれば、素早くカバンから取り出してスケキヨに変装し、やり過ごせるというメリットはある。秘密警察などとさも当たり前のように書いたけれど、それがなんなのか僕はよく知らない。秘密警察の正体はおそらく秘密である。
 東京の人は男女問わずかばんやリュックサックを持っている人が多いけれど、あの中には一体何が入っているのかとても興味がある。時々ファッション誌などを見てみると、有名なデザイナーやモデルのかばんの中身を公開するコーナーなどがあって大変興味深い。ブランド物のコインケースなどが入っていることがあり、どのタイミングでそれを使うのかとても知りたい。コンビニで買い物をする時でさえコインケースを出している人を見たことがない。マネークリップも同様で、たしかになんだか欲しくなる魔力があるのだけれど、それをコンビニで出したら僕は間違いなく赤面することだろう。そういう羞恥心の強い僕にうってつけのアイテムがひとつだけあるのだが、なかなかファッション誌で取り上げられることが無いし、有名人も持っていないし、そもそもそれを使いこなせる人間はこの世でただひとり、スケキヨだけである。
 キングオブコメディーというお笑い芸人のツッコミの高橋さんという人が、とあるネット配信の番組で「かばんを持っていない人って怪しく見えるよな」と話していたことがあって、なんだか納得してしまって自意識に影響する。外国の男の人はかばんをあまり持たないらしく、どうやらかばんを持つのは女の人というイメージがあるかららしかった。だから外国の男性がかばんを持っていないのは自然に受け止められるのに、僕がかばんを持っていないのはなんだか格好つけているようでほんのちょっとだけ気まずい感じが、やっぱりある。
 通い慣れた道をぼんやり歩いた。
 春めいた陽射しを存分に吸収したコートが獣みたいに発熱していた。

 映画館のあるイオンに着いて、真っ先に最上階に向かう。映画館はイオンの最上階にある。ところでイオンってとても嬉しいし、通いやすい。セイユーや駅にくっついているアトレなんかよりもイオンが好きだ。イオンとイトーヨーカドーが並んでいたらどうしようか。お正月とクリスマスだ。バナナチョコレートパフェとクリームもりもりのパンケーキだ。ビアンカとフローラだ。これは一生かかっても答えが出ないに違いない。でも僕が本当に一番好きなのは今は亡きジャスコだ。
 映画のチケットを買って、開演まで時間があったので本屋に向かう。本屋は天国と地獄が混ざりあったような場所で時間とお金がいくらあっても足りない。本、本、本屋には本ばかりだ。本が好きだ。なんで本が好きなんだろう。本の良いところはきっと重さがあることなんだろう。重いというのは嬉しいことでもあった。それは僕が貧乏症であるということを示唆しているだろう。長くて重くてたくさん文字が書いてあって、それは嬉しいのだ。たくさんの文字や紙があるということがよい。あっちこっちの棚を見て回って、面白そうな本をスマートフォンにメモしていく。かばんを持っていないので気軽に買うことがためらわれる。全部で四冊メモした。『キッドピストルズの冒涜』『言鯨16号』『アリータバトルエンジェル』『未必のマクベス』おそらくどの本もとても素晴らしく面白く興味深いに違いない。そういう風に思ってしまうからこそ本屋は恐ろしいところでもある。未読書は家にたくさんある。山になっている。一体いつになったら読み終わるのか見当もつかない。でもそれはちゃんと心の奥底を覗いてみればきらきら輝く楽しみの一部で、まだ読んでいない本があるということはわくわくすることでもある。新しい一ページをめくりたい。
 まだ時間が余っていたのでレストランに入った。肉料理がメインのお店だった。前に一度入ったことがあり、その時にはビートルズが流れていた。今日もビートルズが流れていた。外観も内装もおしゃれな感じで、ナチュラルな木製のテーブルなどが置いてある。客層はどうも女性がメインのようだったけれど、それはお肉の他に大変おいしそうなパンケーキを武器にしているからだろう。のこのこ入っていったら廊下に近い席に通された。この店は廊下に面した壁が無いため、僕は廊下から丸見えである。しかも廊下に置いてあるランチメニューの看板にほど近い場所に席があるため、看板を見ているお客さんが僕の食べているステーキをじろじろ見ることができる。僕は自分の座っている席を「メンタル強い人用の席」と名付けた。たしかに僕は一見メンタルが強そうに見えるだろう。セールの時に買ったブラックのコートを着てマフラーも締めて中には純白のシャツだって着ているからパッと見はおそらく小綺麗で、女性のひとり客を置くと嫌がられる席だろうし、かといって本気で心を鍛え上げてきた10年もののウインドブレーカーを着ているような男性を置くのもなんだか違うという席なのだろう。しかし僕はメンタルが別に強くはない。むしろ弱い。なんだか食べ方がぎこちなくなってしまう。結局身を小さくしてコクピットの中で敬礼するパイロットのように脇をしめてステーキを切っている。「Help! I need somebody!」なんだか阿呆らしくなってきてビールを追加でオーダーしてスマートフォン青空文庫を開き、種田山頭火さんの句集草木塔を読む。
“しみじみ食べる飯ばかりの飯である”

 映画を見て家に帰った。

 
 

努力などについて

「それで結局、その人とはどうなったんですか?」
 彼女は助手席の窓の外を眺めていた。
 ヘッドライトの光が届かない、真っ暗に流れていく窓の外を眺めていた。

 ひとつだけ努力したことを思い出した、と僕は言った。
「なんですか」松浦くんは丁寧に微笑んだ。
「はじめて彼女が出来た時、めちゃくちゃ努力して告白した。勇気が全くなかったので、ウイスキーをがぶ飲みして泣きながらメールを送った」
 松浦くんは、夜空に向かって吠えるみたいにして笑った。
 思えばあの時も冬だった。
 石油ファンヒーターから吐き出される煙っぽい温風を背中に浴びながら、馬鹿みたいに傷つきやすい自分を一番ひどい方法で傷つけて強くなろうとしていたなと思う。
 Tさんはもうこの世にいないし、松浦くんは転職するらしい。
 短くなった煙草を灰皿に捨てたら音もなく火が消えた。
 雪でも降りそうな風が吹いている。なんかシベリアっぽい匂いのする風だ。

 僕が生まれた町には、冬になるとたくさんの雪が降った。
 小指の爪くらいの巨大な雪が真っ黒な空からぼたぼた落ちてくる日もある。
 白い結晶が着地した時の、音未満の音が「すっ」と聴こえるほど大きな雪の粒。
 なにもかも、一日であっという間に雪で埋め尽くされる町には人影が無く、海まで灰色になって、川は凍りついた。
 屋根から生えてくるつららを大人が雪かきスコップで叩き壊す。気を抜くと怪獣の牙のように巨大なつららになって、屋根から地面まで繋がってしまう。そうなるととても危なかったし、たとえ折れて屋根から落ちてきても、重すぎて処分が難しい。氷の塊は春まで溶けない。
 外を歩く時は屋根の下を決して歩いてはいけないと注意された。屋根から落ちてくる雪は分厚く、固く凍っていて何トンもの重さになっている。直撃したら助からない。
 雪を下ろすために屋根に登った老人たちが足を滑らせて落ちたというニュースが冬になると必ず放送される。
 除雪車のミキサーみたいな刃に巻き込まれて誰かが消えてしまう。
 蓋の無い側溝の上に雪が積もって天然の落とし穴が出来て、酔っぱらいや子供が吸い込まれる。
 それでなくとも毎日の雪かきで町の人たちはくたびれてしまっている。
 家でゲームをすることが唯一の趣味だった僕に母が雪かきをするように命じる。
 仕方なく厚着をして狭い庭の雪かきをする。雪かきスコップで集めたものをママさんダンプ(正式な名前はわからない)に積む。山盛りになったらダンプを押して、家の前の土手の斜面を上る。雪は信じられないくらい重い。あっという間に汗をかいて、上着を脱ぐことになる。雪は土手の反対側の凍りついた川に捨てた。
 隣に住んでいるTさんは高齢の女性だった。Tさんの家の前は車を二台停められる駐車スペースになっていて、僕の家では一台分のスペースを厚意で貸して頂いていた。そのことは母に聞かされていたので、Tさんの家の前も雪かきをする。Tさんは雪かきをする体力が無かったはずで、家の前にはいつもこんもりと雪が積もっていた。
 土手側からTさんの家の玄関に向けて雪を掘り進める。
 人が通れるくらいの幅ができた時、突然玄関の戸が開き、Tさんが出てくる。髪がごま塩色で、唇が厚い、ほっそりしたおばあちゃんだ。
「いつもありがとうね、あたしはすごく感謝してる。ありがとう、あんたは優しい子だ」
 Tさんは何度もうなずきながら怒ったような顔で言う。
 僕は笑ってへらへらしている。
 何を言えばいいのか、やっぱりわからなかったのだ。
 するとTさんは急に押し黙り、秘密を打ち明けるような口調でこう言った。
「いいか、あんたはずるくなりなさい。あたしみたいに、ずるくならなきゃだめだ」

 頑張ることと、努力することは、違うと考えている。
 そして、頑張らないことと、努力しないことが、イコール苦労しないことではないとも、僕は思っている。
 簡単に言い直すならば、まず僕は努力をしたことが全然ない。しかし頑張ったことならそこそこある。そして苦労ならたくさんしてきたと思う。そういうことが言いたかった。でもそんな言葉を連ねて、一体何を伝えたいのかは自分でもよく分からなかった。努力しない僕を見損なわないでくれとでも言うつもりだったのか、あるいは、努力しなくてものんびり生きてこられてラッキーだったよなあなんて共感を求めたかったのか、思い切って、僕は努力がまるきりできないのです生まれてすみませんと慈悲を請いたかったのか。その全部かもしれないし、その全部ははっきり言って全然松浦くんのためにならなかった。おこがましい限りではあるけれども、僕は松浦くんのためになることが言いたかった。

 頑張ることと、努力することは、違うのではないかと考えている。
 頑張ることも努力することも、現状をより良いものにするための行動に違いない。
 しかし、頑張ることがあらゆる上昇を意味するのに対し、努力は自分の限界値の底上げを目的にしているような含みがある。ように僕には感ぜられる。ゆえに僕は僕の定義において努力をしたことが無い。それが何を意味しているのかと言えば、ただ単に、僕が怠惰なバイオゴリラであるということの他は無い。ないのでこういう説明は松浦くんにはしていない。こんな説明をしたならば、理屈っぽい上に怠惰なバイオゴリラであると思われる危険がある。危険はこわい。
「ただ松浦くん、ぼかぁ……」
 ぼかぁ……と言いかけて、飲み込む。
 飲み込んだものの正体を見極めんとする松浦くんのさりげない眼球運動を頬ぺたに感じる。
 言い淀まれると気分が良くないものだ。僕は松浦くんの気分を害したいわけではないのだ。
「なんと言えばよいのだろうな、ぼかぁ、ずるくなろうと思ったんだよ」

 夜を背負って青白いビルがそびえている。
 街の灯りを吸い込んだ空は黒い膜に銀の粉をまぶしたような変な色になっていた。
 細い路地に突っ立っている灰皿の前で、松浦くんはポケットに手をいれて寒さに肩をすくめ、ふらふらと左右に揺れている。その隣に立っている僕は地に根が生えたように動かない。
しじみさん、これって結構失礼になっちゃうかもしれないんですけど、失礼な質問かもしれないんですけど、しじみさんって何か、すごく努力したことってありますか?」
「無い。ひとつも無いよ、松浦くん」
 僕は胸を張って答えた。

 

 

今週のお題「雪」

 

贅沢

 会社のパーソナルコンピューターの前に陣取って、デスクトップ画面を無心で眺めていると、机に置いてあったスマートフォンが不意に「ブゥン」と震え、メッセージが表示される。古い友人からだった。
「平日だというのに映画館をはしごする幸福!」
 送られてきたメッセージは、その一行ばかりである。
 二十秒ほど見つめていると、ようやく感想のような言葉が湧き上がってきて、それは本当に幸福なことだ、という意味の返信をする。その時電話がビルルと鳴り響き、僕の中のスイッチが瞬時にですます調に切り変わる。受話器を耳に当てて何かもっともらしいことを口にしながらメモ帳にボールペンを滑らしている間にメッセージのことはもう忘れてしまう。
 しかし、その一行は僕の心に届いている。

 この間の休日の朝、肌寒い空気の中に目覚め、一日が自由だということに気がついた僕は、いつものようにキッチンの台所の下に立ち煙草を吸いながら、今日はどこかへ出かける方がいいみたいだぞ、と直感してしまう。ここ数週間は、休日でもどこにも出かけず、部屋に閉じこもって動画配信サービスで面白い動画を見て感動したり、知らない音楽を聴いて驚いたり、積み上がった本を拾い読みしたりなぞして過ごしており、お出かけ力が低下していた。
 お出かけ力の低下は短期間であれば実生活上、大した障害にはならない。外に出るのが億劫になるくらいのものだ。しかし、長く続くとだんだん悪い方向に働いてくる。発想が貧困になり、他者とのコミュニケーションが面倒になり、厭世感が強まり、体が暗黒物質をまとって人の形を保てなくなる。そうなる前に一度、部屋の外にはきちんと世界があるのだということを自分の体に教え直さなくてはならないから、水族館とジャズクラブにゆくことに決める。

 水族館はビルの最上階にある。
 エレベーターで水族館がある階まで上ると、早歩きで受付に向かい、ポケットに準備しておいた会員証を出す。受付に立っていた感じのよい女性が、会員証を受け取りバーコードを読み取る。僕はものすごい早歩きで薄暗い館内に入る。時間がなかった。ジャズクラブの開演まで一時間しか無い。お出かけしようと決めたあと、風呂に入ったり、部屋をちょっと片付けたり、片付けていたはずみに出てきたカウンター(交通量調査の人がかちかち操作している小さい機械。何故買ったのか全くわからない)をいじって遊んだりしている間に時が過ぎていた。
 僕は水族館の年間パスポートを持っているので、水槽の配置や大体の雰囲気は記憶していて早歩きでも全く問題がない。全く問題がないと思っていたことがそもそも問題な気もしたけれど、年間パスポートを所有することの一番のメリットは「見ても見なくてもどっちでもいい」という気分になることだと思っていて、執着が無くなる。あれも見たかったこれも見たかった、という気持ちが無いので、落ち着いている。百回でも二百回でも見られるのだから水槽の前を全力疾走で駆け抜けてもへいちゃらである。年間パスポートはたった二回分の入場料金で手に入れることができる。具体的には4400円である。年間二百回水族館に行くとしたら、435600円分得したことになる。それを十年続けたら4,356,000円もお得になる。悪魔的である。
 深海に住んでいるエビがはさみを突き出して足をもそもそ回転させている。大変可愛らしい。あまりの可愛らしさに胃が締め付けられる。丸っこいイカは足を揃えて泳いでいて、両端の二本だけ平泳ぎの足みたいに曲げたり伸ばしたりしている。つまみたい。イカコーナーでは「おいしそう」という声が頻繁に聞かれ、イカの食べ物としてのイメージの強さを思い知らされる。巨大なエイは座布団のように床に伏せている。穴から顔を出して目玉をぎょろぎょろさせていたウツボが急に這い出してきて子供たちが叫んだ。真っ黒いなまこはよくみると無数の触手を伸ばして砂をいじくっている。怒ったような顔の透き通った団子みたいな魚が怒った顔のままゆっくりと水の中を漂う。ふぐはヒレを細かく高速で動かして泳ぐのでヘリコプターみたいだ。腕時計の針はマイペースに同じ所をぐるぐる回っている。ジャズライブが始まる30分前だった。

 路地裏にあるジャズクラブの看板はとても小さい。地下に続いている階段を駆け下りドアの前に立った頃には開演から5分が過ぎていた。窓のない木製のドアを開けると不明瞭な楽器の音が聴こえてくる。白熱球の照らす無人のレジを横切り、ライブハウスへのドアを開けると洞窟の出口みたいな明かりがステージから観客席を照らしており、三人の演奏者が難しい顔で難しいジャズを奏でていた。眼鏡の女性が音もなく近づいてきてくれたので料金を払ってジントニックを貰うことにした時、とても恥ずかしい。客席の端にあるスツールに腰掛けて煙草に火をつけてじゃらじゃら鳴っているステージを眺めていると飲み物が運ばれてきて、一口飲むと酸味のあるライムと薬っぽいジンの味の混合したはっきりとした味わいがキレのあるコントみたいでもある。新しいお客さんが入って来たのをきっかけにして客席の木の椅子に座って体を小さくしてジャズのスタンダードだという曲を聴きながらだんだん頭の中が空っぽになっていくのを感じた時、友人からのメッセージを思い出している。そして村上春樹さんのことを思い出してしまい一人で気まずくなっている。それでも贅沢というのはこういう時間のことを言うのかもしれない、と思いながらドラムを叩きまくる帽子の男性が真っ青な照明に照らされて苦悶の表情を浮かべている時、水中にいる人間が溺れてしまうように、何かが溢れている場所にいる人間はきっとああいう顔になるものだなと納得して、椅子の一部になったようにステージを見ていた。

 ライブが休憩時間になった時、お客のおじさんが一人、バーカウンターまで歩いていき、
「コカコーラちょうだい」と言った。
 あのおじさんは、ジャズの年間パスポートを持っているに違いない。

 

爆笑エッセイについて

 僕の中で爆笑エッセイが熱い。
 爆笑エッセイ。
 とても字面が良いので、本の帯などにその言葉が書いてあると気持ちがわくわくしてきて、それだけで笑ってしまう。結局、本は買わない。
 なので僕は爆笑エッセイというものを、おそらくほとんど読んだことがない。
 一体どういうことが書いてあるのか想像してみると、おそらく、おじいちゃんがくしゃみをしたはずみで入れ歯が100m飛んだ話とか、犬と話せるようになった話とか、上司のブリーフケースからけん玉がこぼれ落ちた話とか、そういうことが書いてあるんじゃないかと思う。
 じゃあつまり、そういうことを書いたら僕でも爆笑エッセイが書けるんじゃないかというコペルニクスが肉離れを起こしたような逆転の発想でもって完全無欠な解をみつけた気になったのだけれど、そういうオモロな出来事は僕の人生にただのひとつも起きていない。
 であるとすれば、僕は爆笑エッセイが書けないということになってしまう。
 書けないんだろうか?
 面白い題材を持っていない人間は、爆笑エッセイが書けないということなのか。
 そのことについて少し考えてみたけれど、笑える題材がないと、やはり笑える話は書けないのだ。
 笑えない題材で笑える話を書こうとするのは、
「きょうはこの腐ったエビを使って、美味しいエビフライを作りたいと思います!」
 という料理番組みたいなものだ。
 腐ったエビで出来るのは、腐ったエビフライだけだった。
 
 エビのような高級食材でなくともいいから、何かほんの少しでも笑える題材を、僕は持っていないのだろうか。あるはずだ。生きていればひとつくらい微笑レベルのお話を、持っているはずじゃないか。微笑レベルのお話で出来るのは、きっと微笑エッセイなんだろうけれど、ここに至ってはもう爆笑も微笑も同じようなものだ。笑えればそれでいいではないか。食べられる料理であれば、それで。

 だめだ本当に、下ネタしか出てこない。いい大人なのに、嬉々として下ネタを書くような、そんな大人になってはいけない。もっと美しくエスプリの効いた頭のよいユーモアを、僕は書きたいんだ。そして自分の書いた微笑エッセイで、紅茶を飲みながら静かに微笑んでいたい。窓際に置いたパキラのように、微笑んでいたい……

 悲しい話しとか、苦しかった話しとか、不安や恐怖や、そういうのばかり記憶に残るのは、強い感情が生存に密接に関係しているからだと何かで読んだ。危機感や、悪い感情というのは生命を危険に晒す可能性がある事柄の警報だから、記憶に深く刻まれる。その反面、面白いことや笑えることというのは、快くはあっても命には直結しない。生きることとはすごく関係があるのに、命には関係がない。

 ひとつだけ、面白かった話を思い出した。
 松浦くんと話していた時のことだ。
 長い作業が続き、話題も尽きて、沈黙が増えて来る時間。
 すっかり夜も更けていて、僕は疲労のために頭がすこし、ふわふわになっていた。
 ぼうっとして、論理的な思考がうまくできなかった。
 だからこんなことを聞いた。
「松浦くん、犬を飼うとしたら、どんな名前にする?」
 本当に話すことが無くなった時のどうしようもない話題である。
 対面に座っていた松浦くんは、すぐに腕組みをして考え始めた。
 うーんうーんと唸っている。
 彼は、礼儀正しく話を聞いてくれるいいヤツなのだ。
 つまらない質問にも、真剣に考えてくれる。
 僕はいい後輩を持ったなあとしみじみ思った。
 松浦くんは真剣に考えたあと、顔を上げて言った。
「コロッケにします」
 可愛いのである。間違いなくちょっと太った柴犬だった。
 うちのコロッケがさあと話しだすともうその場はカオスに飲み込まれ、コロッケが? 喧嘩して? コロッケの傷の手当を!?
 みたいになるのが目に見えていた。
 でもコロッケは可愛い過ぎるのではないか。
 男子たるもの、もっとかっこいい名前をつけるべきではないのか。
「なら、デンジャーにします」
 丸々と太った柴犬がデンジャー(危険)と呼ばれ、困った顔で振り向いた。
 僕は微笑した。

 

暇な時に考えること

 趣向だとかコンセプトだとかを考えて、計画の通りに実行するということを、毎日(自分を疑いながらでも)行動できる人って、選ばれし者で天才で努力家で、豪傑で、憧れの的で、ある意味ストイックかもしれなくて、貪欲でもあって――ストイックかつ貪欲であるという部分はアンビバレンスで――なんといえばよいのか、素敵だったので、そういう風にできたらいいなと何度も思って試してみるけど、僕にはどうもできそうにないということが判明したのは一度や二度ではなく、おそらく生涯で53回ほど判明しているんだけれども、それだけ判明しているのはすぐに忘れてしまうからであり、すぐに忘れてしまうからこそ計画通りということができないのであって、問題は意思の強さ、なんかではなく、問題は計画の建て方、なんてものでもなく、問題は強力なモチベーション、でもなくて記憶力なんじゃないかなと思ってちょっと笑う。
 言い訳や弁明というのは、僕が僕に対して実行する限りにおいて僕は面白いけれど、おそらく僕以外の僕が僕の言い訳や弁明を目にした時、あんまりいい気分にならないのではないかと思い、僕は僕のために言い訳や弁明を阻止したいと思いながらパソコンに向かって、YOUTUBEというWEBサイトに接続し、雨が降る音を録音しただけの動画を再生して、雨が降る音だけが聞こえてくるヘッドフォンを頭にかけ、雨が降るような感じでなんとなく僕の実況中継をしている。そういうことをしている時には、気分がとてもよくなるから好きだ。けれど、僕が実況中継をしている相手も僕だから、プレイヤーの僕と実況中継の僕がある瞬間に渾然一体となって「これは一体誰だ」と思える瞬間だけが僕じゃない。みたいなことが起きるのがやっぱり好きだった。
 その昔、自分探しの旅に出かけようとした僕がいて、その僕は勇気のある僕だったので、険しい道程になることを覚悟しながら、自分探しに出かけた。本当の自分を探すのだ、どこかに本当の自分がいるに違いないと思って出かけた僕が10年経っても帰ってこない。僕を探しに行った僕はどこに行ったんだ。
 それから、そのままの自分でいいんだ、という牧師のような僕が現れ、全僕に向かって教えを垂れ、僕業界では今空前のありのままの僕が流行している。ありのまま教の教えの背景には科学的な根拠もあり、一大勢力になっている。しかし、ありのままと言ってもありのままって一体なんだろうという子供の僕がやはり首を傾げてしまうこともあり、ありのままと言ったって、具体的にどうありのまますればいいのかありのままに教えてほしいものだね、と伯爵のような僕が皮肉を言ったり、ちょっとした反抗勢力もあったのだが、牧師の僕が、何もない僕をみつけたとき僕は何もない僕をありのままとして信じなさい、とおっしゃったのでちょっとした禅問答みたいになっており、僕業界は今、全体的に震撼している。
 記憶力のこと、考えながら書くこと、完璧な自分なんていないということ、などのことをなんとなく書いてみて、この三つの事柄には、どうやら共通したテーマをみつけられそうな気がしているんだけれども、それが一体なんなのか、分かったらタイトルにしたい。わからなかった時には、このまま潔く、筆を折ろう。
 そして明日、新しい筆を買いにゆこう。

 

 

理想のバレンタインデー

「これからバレンタインデーを始めます」と、ほたて先生が言いました。
「先生はバレンタインデーが嫌いです。学生の頃、好きな男子にチョコを渡そうと思い、徹夜して作ったものを渡せず、悔しい思いをしたからです。その悔しさは先生の心をへし折り、深い傷を残しました。だから先生は考えました。どうしたら誰も傷つかないのかと。ここにクラスの女子全員がお金を出して買ったチョコレートが男子全員分あります。これを配りますので、男子は一列に整列し、一切の期待を捨て去り、無心で受け取ってください。ちなみにホワイトデーには全く逆のことをする予定です。それでは並びなさい」
 ほたて先生があまりに恐ろしい顔をするので、男子生徒はすぐ出席番号順に整列し、教壇の前に並びました。
 チョコレートを渡すたびに、ほたて先生は言います。
「チョコレートはただのチョコレートよ」
「こんなものに気持ちなんてない」
「生きているだけで素晴らしいのよ」
「イベントに依存することは自由意志の放棄」
「一緒に体制を打破しましょう」
「我々は時代の魁となる」
 先生が透明な表情で意味のわからないことを言うので、クラスメイトはみんなぶるぶる震えてしまいました。
「全員にゆき渡りましたね。それでは食べなさい。持ち帰ったり、捨てたりすることは許しません。この場で全て食べなさい」
 男子生徒が恐る恐るチョコレートの包装紙を剥がし、もそもそ食べているところを、女子は気まずそうに見ていました。
「男子が全て食べ終わりました。女子は満足しましたね。自分のお金で買ったチョコを男子が食べたのですから。先生が出来なかったことを、あなた方は達成しました。これを心の励みにして強く生きてください。それではこれでバレンタインデーを終了します。最後に、まさかそんなことは絶対に無いと思うのですが、個人的な菓子類の譲渡を見かけた者は、先生に報告してください」
 しーんと静まり返った教室に、異様な含みのある言葉だけが漂いました。
 ほたて先生は教室を出てゆきました。
 足音が廊下の向こうまで達した時、活発なクラス委員長のあさりさんが立ち上がりました。
「言っておきたいのだけれど、今の偽バレンタインデーは女子の総意ではないわ! イベントを楽しんで何が悪いって言うの? 私達はほたて先生の脅迫に屈したように振る舞っていたけれど、本当は個人的に菓子類を男子に渡したい気持ちも多少はあります! だから先生には内緒で、個人的に菓子類配りたい人たちがこれから男子に配ります。はい!」
 号令がかかると、クラス中の女子があちこちに隠蔽していたカラフルな包みの菓子類を取り出し、あっけに取られた男子達の机の上に置いてゆきました。
 人気のある男子生徒の机の上には、4個も5個もぴかぴか光る箱が乗せられました。あまり人気のない男子生徒の机の上には、それでも1つくらいは、義理のかもしれませんけれども、真心のこもった箱が乗っておりました。
 そして僕と、隣の席のあこや君の机の上には、ひとつも箱がありませんでした。
 全き無でした。
 クラスにほんわかした空気と、わきあいあいとした会話が飛び交うようになった頃、あこや君が泣きはじめました。音もなく、さめざめと泣いたのです。その姿を眺めているうちに、僕の目もだんだんと熱くなってきて、目が曇り、こらえきれなくなり、頬を涙が伝ってゆきました。
しじみ君、ぼくはバレンタインデーをゆるさない」
「あこや君、ぼくはバレンタインデーがにくい」
「こんな場所は出ていこう」
「そうとも、おん出てやる」
 僕とあこや君は獣のような咆哮を上げながら教室を飛び出し、風のように廊下を走り抜け、涙のしずくと共に階段を飛び降り、靴も履き替えずに校舎を出ました。それからどこをどう走ったのか、上手く思い出せません。気がつくと、校舎の裏を流れている川の岸にいました。あこや君はそのまま川の中にざぶざぶと入ってゆき、全身を躍動させて水中に飛び込むと、金色の巨大な鯉に姿を変え、ひとすじのきらめく光となって上流へと泳いでゆき、やがてたなびく煙のような長い長い龍となって大空へ吸い込まれてゆきます。彼はバレンタインデーがやってくるたびに空を暗雲で覆い、大雨を降らせる竜神になりました。悲しき男の涙が雨となるのです。
 彼の後を追おうとした僕の肩をつかんだのは、ほたて先生でした。
 先生は登りゆく龍を見つめながら言います。
「先生にだって、大人にだって、答えなんてわからないのよ。押さえつければより強く跳ね返る。そんなことは分かっていたわ。それでも、跳ね返る力が、先生のような弱さを乗り越える力になるなら、それでもいいと思ったの。あこや君は龍になってしまったけれど、先生はそれも認めるわ。彼がなりたいなら、龍になったっていいと思うの」
 先生に何か言い返したいように思いましたが、僕の頭には何一つ、言葉が湧いて来ませんでした。
 ほたて先生は寂しそうに笑い、僕の頭にぽんと手を乗せました。
「あなたはきっとバレンタインデーに不満があるのでしょうね。でもね、バレンタインデーにチョコを渡すのってすごく勇気がいることなのよ。たとえあなたを好きな人がいても、勇気が無くて渡せないだけなのかもしれないの。だから先生は提案する。もしあなたがバレンタインデーに何か欲しかったのなら、あなたは誰よりも勇気を出して、ホワイトデーに、自分からあげるの」


 こういうバレンタインデーがあったら良かったなあと思います。

 

 

今週のお題「わたしとバレンタインデー」